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piantinaの日記

日本のとある教会で弾いてるオルガニストの毒にも薬にもならない戯言

先週はご葬儀が2件連続でありました

みなさんこんにちは、Piantinaです。
しばらく間が空いてしまいましたが、これは先々週末に立て続けに訃報が入り、ご葬儀を2件連続で執り行わなければならなくなったので、ブログどころか、葬儀のことがきちんとできるか、葬儀の聖歌が弾けるかなどで忙しくしておりました。

 

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こんな立派な楽器ではなく、ポータブルキーボードでしたがね。試験的に献花の時に音量を落として奏楽をしてみたりしました。

 

いつだったかこのブログで「東京に泊まりがけで発表会に出たらお金が翼を付けて飛んで行ってしまって、不謹慎は承知だけど葬儀が2件くらいあったら」なんて書いちゃった自分を痛く反省しております。まさかこれは「デスブログ?」と思ってしまいましたが、私がそう書かなくても、もしかしたら「運命、さだめ」だったのかもしれません。

 

 

とにかく先週(2月12日(日)夜~2月15日夕方)までは結局それだけで手いっぱいになっていました。途中なんとか買い物とか洗濯とかできなかったわけではないですが、洗濯物を干しながら「家政婦が欲しい…」と思ってしまいました。猫の手でも借りたかったのですが、猫は……役に立ちませんでした。

 

 

 それはさておき、先の1件は地元だったので、移動に時間がかかったり、「遅刻しないように行かなくては!」というのはなかったのですが、ただ、「炉前」の地域でしたので、出棺前の嘆願をしに7時に家を出て車で葬儀会館まで車で走りました。そのくらいでしょうか。でも気候的に寒すぎもなく、穏やかな天気の中、埋葬までを終えることができました。

 

 

よくよく夫に同行して(オルガンの奏楽者として)いるとキリスト教の葬儀に出た経験のない方から「キリスト教式ではどうなんですか?」という質問をあれこれ受けたりします。献花でお花はどう向けるべきかとか、「御仏前?」「御霊前?」「御花料?」と聞かれたりとか。

 

 

お花はどちらに向けても。特にうるさい決まりはありません。でもだいたい棺にお花が向くようになっています(前の人に倣ってやっているというのもありますが)。一応一般常識としては「御花料」が正解、とされています。カトリック教会でしたら「御ミサ料」です。わたしのところは一応「プロテスタント」に属しておりますので「御花料」です。

 

 

キリスト教の葬儀って歌なんか歌うんだねぇ!なんかいいなぁ」と言ってくださったり、「歌が心にしみました……」と感動して泣かれる方もいました。
一方で、特段「細かなことは地域のしきたりやその家のしきたりに従います」というスタンスであるから、困ったこともありました。

 

 

2件めの葬儀では火葬場で炉の前でお祈りをささげた後、火葬するのですが、問題はその後に起きました。ご収骨のときです。通常は2人で箸をもって1つずつ骨壺に入れますよね?
私どものスタンスではその地域やそこの家のしきたりに従います、ということでいたら、ご遺族の方が「1人1人箸を持って入れてもいい」と言ってしまい、帰りのバスの中で「ウチの地元の火葬場と違う!」「ウチの火葬場のほうが職員の方の扱いも丁寧で半ば儀式の一環のようにやっている!」と不満たらたらでした。

 

 

夫は離れて座っていたので、たまたま近くに座っていた私がかわりに「キリスト教式ではそういう火葬に関するものはお祈りくらいしか定めているものがない」ということと「日本以外のキリスト教国では火葬ではなく土葬がメジャーなので、そういう細かな決まりがないのです」という説明をしました。

 

 

確かにその方の地元(私の地元でもありますが)の火葬場は広域で新しく、職員さんも丁寧ですし、あまり「悲しくない」のです。「炉」という感じもなく、別室に行く、という風に設計されていて(そういう専門家の方がそう設計されたのでしょうかね?ご遺族の方の悲しみを軽減できていいと思います)私も「いいな」と思っていました。どうも幼いときに連れていかれた葬儀のトラウマもありましたので。

 

 

まぁその週はそれでいっぱいいっぱい。さらにしばらくして日曜日を迎えたわけですから、もう疲れがすごかったです。

私の「タラレバ」をお話しします。

みなさんおはようございます、Piantinaです。
今週のお題「私のタラレバ」とありますので、「私のタラレバ」を話します。

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もし、中学受験に失敗していなかっ「たら」

私は、実は中学受験をしていました(過去の記事にあります)。 

mayflower81.hatenablog.com

 まぁ結果は不合格でしたが、受かってい「れば」、中学から大学までエスカレーターでした。制服もありませんでしたから自由に服を選べました。でもそれはそれで結局制服っぽいコーディネートになっていたであろうと思います。まぁ高校受験、大学受験を経験しない上に、私学の方が公立の学校教師よりも最先端の研究をされている先生が教えていたりなどして、それはそれでレベルの高い教育を受けることができたでしょう。

 

 

でも、地元の公立の学校を出ていることが人生において「ダメ」だったのかというと、そうでもありません。「地元でのコネ」ができます。特に県立などの名門校などに進んでいれば「地元で就職したい」というときに非常に有利に働くこともあります。一概にこれは「良い、悪い」とはいいきれません。

 

 

もし、10年といわなくとも干支は同じで一回り先に生まれてい「れば」

私はいわゆる「氷河期世代」のしっぽあたりに相当する年の生まれです。
せめて10年、といわずとも、干支が一回り先だったら就職はバブル時代でした。それで私の大学でしたら、就職は引く手あまただったかと思います。いくつも内定を取って「どこにしようかな…」と悩み、そしてゆるく数年働いて結婚、続けたかそれとも退職して子育てしていたかわかりませんが、いわゆる「親が望んだ普通」が苦労なく手に入れられていたのではと思うと…。

 

 

だけども、その後バブルが崩壊したり、リストラがされたり、その後ITバブルとリーマンショックなどがあったりしてそれはそれで、大変。12年上ですからちょうど今なんか子どもにお金がかかるような年頃。その時に「はぁ、これまでイージーモードできちゃったけど、今は大変だわ・・・」となっていたかもしれません。

 

 

もしも、定型発達の優しい夫と結婚してい「れば」

これはありますね。もし夫が定型発達者だったら、夫となる人が定型発達者だったらどんなに今のような苦労がなく、仲良くやっていけていただろうな、と感じることはあります。たとえ収入が高収入、安定した職と限らなくても、自分といろいろなものを共有できたり、また相手からもいろいろと共有できてそれはそれで幸せな結婚生活だったかと思います。

 

 

定型発達者だったら普通に子どもを持って普通に子育てできたんだろうな・・・と思ったりしているのですが、まぁこればっかりは「大人になってしまった」人を定型発達者か、それとも発達障害者か、見分けることは非常に難しいかと思います。ただ、専門職や研究職、医師や薬剤師、高度な専門知識を必要とする職業には発達障害者の人の割合が高いかと思いますので、そのあたりはよ~~~く相手を観察しておくことが大事かもしれません。

 

 

ただ、唯一、「夫は発達障害」で良かったことといえば、「哲学することができた」ということでしょうか。またそのことでいろいろと自助グループの集まりに出てみたり、本を読んでみたりもしました。「夫婦とは」とか「なぜに夫はあれほどまでに人を傷つける発言をしても平気でいられるのだろう」とか、いろいろと思考、哲学できたと思うのです。さらに「もう普通に”いい”とか”良くない”とかの評価されるのはやめてしまおう」と開き直れたという点ではなんだか図太くなれてきたかと思います。体形同様(笑)だって悩んだりうだうだしている間に時間が経ってしまうんですもの。もったいない。

 

 

 

そんなわけで「私のタラレバ」を話しました。
他にも「タラ」「レバ」はいっぱいあります。
結論としては……まぁなんだかいろいろあるけど他の道を行っていたら、他の人生を歩んでいたら、とは思うものの、なんだかんだで自分に満足しているところもありますし、逆に「変わるのが嫌だな」と思うようになってしまいました。もちろん悩むときも深く落ち込むこともあります。激しく怒りたくなるときもあります。でも、どれもこれも「私」が生きる道。それならまぁ「今をどうやって生きるか」にフォーカスを当ててるほうがやっぱりいいやと思えるのです。

『沈黙―サイレンス―』を観た。

みなさんこんにちは、Piantinaです。
先日、今週の月曜日についに、「沈黙―サイレンス―」を観に行ってきました。

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一応、写真のタイトルが「教会 長崎」とあったので、使わせていただきました。写真そのものは素材サイトから引っ張ってきたものです。

 

『沈黙』と聞いて、文学に詳しい人、もしくはクリスチャンの人だと、「ああ!遠藤周作の!」という反応でしょうが、そうでない人は「えーっと、高校の現代国語でやったっけなぁ…」くらいの反応かもしれません。かくいう私も恥ずかしながら現代国語の教科書にたまたま『沈黙』が掲載されていてその個所を読んだのみです。

 

 

 

高校2年でそろそろ大学受験などを視野に入れ始めないといけない時期でもありましたし、結局その頃は英検を取るのに忙しかったり、ピアノをやっていたりしていましたので、文庫本を一冊買って読んでみる、ということができずじまいのまま大人になってしまいました。

 

 

まぁこんなどうしょうもないダメクリスチャンもいます、ってことで。まともに聖書も読まないですし、礼拝はここ数年はなんとか全出席、オルガンも弾いています。だけども神学やら礼拝学やらの知識などを深めることなく「なんとな~~く、ゆる~~く」教会生活を送っているだけの私です。

 


で、「ダメクリスチャン」な私(これでも教会に通って10年超えてるんですけどね、お恥ずかしい)が改めて遠藤周作さんの代表作であり、今回アカデミー賞受賞歴もあるマーティン・スコセッシ監督がメガホンを取った「沈黙―サイレンス―」を観て感じた事をお話しできたらと思っています。

 

 

 

人間は、みんな弱い。

まず、この映画を見て感じた印象はこれでした。
つまり、隠れキリシタンの村人たちはもちろんのこと、ロドリゴの師・フェレイラも、ロドリゴも、キチジローも、「弱い」。
そして「隠れキリシタン」を取り締まる長崎奉行所の井上も、役人たちも「弱い」。

 

 

なぜなら、彼らも「幕府、将軍」に対して思い切ったことができないし、命令に従っているだけ。そしてその当時の幕府将軍の徳川も日本人がキリスト教徒になって、キリスト教人口が増えてしまったら自分らの統治が効かなくなることを恐れていたことでしょう。

 

 

なぜなら、キリスト教というのはその時代の統治者よりも「神(父である全能の神様、そのひとり子であるイエス・キリスト聖霊である神の三位一体の神)」を信じるわけですから。昔々にさかのぼれば古代ローマの統治者もキリスト教が広まるのを恐れました。つまり「いかなる政府、政治権力に対してアンチ」なわけです。ぶっちゃけちゃえば。

 

 

でも、思うのです。
「強い人間っているのですか?」と。
人間は人間である以上限界だってありますし、時に応じては何かに「従わなければいけない」時だってありますし、いつもいつも全力で元気いっぱい、一定量の力を出し続けられる存在ではありません。時には病気やけがだってします。ココロを病むことだってあります。おそらく人間が強かったら「神」を必要としなかったのでは?と思います。まぁもちろん個人の思想上「神」という存在を必要としない人たちもたくさんいることは私もよく存じております。

 

 

そして、フェレイラやロドリゴのような聖職者も知っていますし、キチジローなんかは何度も踏み絵を踏んでしまってはロドリゴのところに「懺悔」をしに来ます。案外私とよく似ていてついつい流されてほかの怪しげな思想やらトンデモ科学などに触れちゃったりするんですが、でも「ごめんなさい~!!やっぱり教会に戻ってきたんですぅ~!!明日から悔い改めて生きます!!神様許してください~!!」となっちゃう。

 

 

まぁああいうタイプの人は私のみならずもちろん教会に普通に通っている人にもいます。なかなか教会にコンスタントに来れず、ある日突然「礼拝に来ました~!!」というタイプの人。窪塚洋介さんの演技もすばらしかったのですが、すごく思い入れを入れて観ていました。 

 

 

そして、気づいたこと

そして、気づいたのは、この映画、小説を丹念に、丁寧に表現されていて、ロケ地はもしかしたら長崎ではなく台湾ですとか中国だったりするのかもしれないのですが、時間としても非常に長いです。当初上映時間を見て「途中で絶対トイレに行きたくなるな」と思ったのですが、直前に行ってなんとかギリギリ持ちこたえました(笑)

 

 

で、私が教科書でやった『沈黙』の箇所というのは本当にクライマックス、まさにロドリゴがフェレイラから「棄教か、信仰を貫いて殉教か」という究極の選択を迫られるそのシーンだったというところです(あまりしゃべるとネタバレになりそうです)。

 

また、これは映画の感想をtwitterで分かち合った方から聞いた話なのですが、最後の方は遠藤周作自身が描けなく、お弟子さんが書いたけれどもうまく表現できなかったというところを、スコセッシ監督がうまく補完させたということでした。ロドリゴ自身は表面上、表に現れて神や聖書、祈りといった「キリスト教的」な色は一切出さない、そして名前も日本語の名前が与えられます。完全に日本人に同化して暮らすわけです。

 

 

 

現代のクリスチャンも「隠れキリシタン

私自身は今はただの専業主婦で、さらに子どもがいないので社会との接点が非常に少ないのですが、働いていた時代や「教会外の」人たちと接するときというのは極力自分から「キリスト教色」を抜いて接しています。それでも、クリスマスが平日にあたって、仕事を休まないと教会に行けないような時もありましたから、結構ギリギリのところでやっていたところもありますが、そうでないときは人から聞かれない限り「自分はクリスチャンだ」とは言いません。労働基準法上は「宗教、信教を理由にした解雇」は禁止になっています。そうですよね、大本の現行憲法すら「思想、信条、精神の自由」を謳っているわけですから。

 

 

おそらく、オウム真理教の事件以来、「ひとつの宗教に所属していること=マインドコントロールされて騙されちゃったかわいそうで弱い人で自分のお仲間を増やしたいからと猛烈に勧誘してくるのでは」という印象を与えてしまっているのですね。それ以上に「クリスマスをお祝いして、除夜の鐘をついて、初もうでに神社に行く、お宮参りや七五三やって結婚式はキリスト教式、葬式は仏式の自分たち日本人は宗教に寛容なの!」という考えをしている人の方が「なんだかなぁ」と思うのです。

 

 

一貫性がないことを問題だ、というわけではありません。
むしろ、そういう「自分たちって寛容でいい人たちなんですよ」と表だって主張することに「ある種の傲慢さ」が出ているのです。わかりやすく言えば「いい人アピール」ってやつです。「いい人」がしたかったらそういう余計なことを言っていないで、黙ってそれぞれの宗教を理解し、リスペクトしているほうがよっぽど素晴らしいと思うのです。

 

 

そんなわけでダメダメな向上心のかけらもないクリスチャンの私があの遠藤周作さんの代表作『沈黙』を巨匠マーティン・スコセッシ監督の「沈黙―サイレンス―」を見てきて思ったことを書いてみました。映画として見ても素晴らしい作品だと思います。それにちょうど昨日、大阪でユスト高山右近列福され、カトリック教会での「福者」となりました。安土桃山~江戸時代初頭の日本とキリスト教に注目が集まっているようです。

続・たとえ何者にならなくてもたくさんのジャンルに触れるべき―私の音楽教育考―

みなさんこんにちは、Piantinaです。
昨日「たとえ何者にならなくてもたくさんのジャンルに触れるべき―私の音楽教育考―」という記事を上げさせていただきました。この記事は続編というか言い足りなかったこととかです。

 

mayflower81.hatenablog.com

 

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長々と(3000字以上!)自分の音楽とのかかわり、今に至るまでの音楽とともに歩んだ私の半生(約30数年間)を振り返りつつ、時に音楽をすることが嫌になったり、時に音楽によって助けられたリ、音楽によっていろんな人たちと出会うことができた、という思いと、著作権料を取られるからとレッスン料が値上げになったり、いろんなことを音楽教育に携わるプロの方が委縮してしまって将来の音楽を担うであろう(演奏家でも聴く側でもどちらでも)子どもたちに「この世にはいろいろなタイプの音楽があるんだよ」と教えたり背中で示したりすることができなくなったら、という思いも書きました。

 

 

というのも、私の音楽教室時代の仲間たちは後々、母親同士で会ったりして近況などを話すと、卒業した後もなんだかんだで「音楽とつながっている」のです。男の子はさすがにやっぱりバンドですかね。ギターなどをやったりしていたようです。女の子だと吹奏楽部に入ったり、ピアノを続けたりいろいろ。私は吹奏楽部には入りませんでしたが。

 

 

中には吹奏楽部に入って、そこから音大に入ったという話を風の噂に聞いた人もいます。ほかには自衛隊の音楽隊に入った人も知っています。まぁキリスト教の洗礼を受けて教会のオルガニストになって、教会にお嫁に行ったなんて人はきっと私だけかもしれませんが(笑)まぁ私の周りだけですので、そうじゃない人たちもいっぱいいるかと思います。

 

 

音楽教室を卒業した人たちが必ずしもプロの演奏家や教師や何かにならなくても、「一生の趣味」として、または「鍵盤楽器を演奏することができることで教会で奉仕をすることができてみんなの役にたっている(…と私は思いたい)」という卒業生の姿を当時の先生方が見たとしたら、感動のあまり涙が出てくるのではないかと思うのです。たとえなにがしかのコンクールで賞を取ったとかそうじゃなくても。アマチュアバンドだったとしても。もし私がピアノの先生だったら教え子がそうやってピアノでなくても別の楽器でも音楽を楽しんでいる姿を見たらそうなっているだろうな、と思います。

 

 

子どもに音楽を教えるというのは、大人側から「世の中にはこんな種類の音楽や楽器があるんだよ」と音楽のいろいろなことが書かれたカタログを見せるのと同じことなのではないかと思います。何を選択するかはその子の自由。クラシックのピアノを極めたいでもいいですし、ロックミュージシャンになったっていい。DJになったっていい。はてまた民族音楽とかキリスト教教会音楽の大海で溺れていたっていいわけです(←これ私w)

たとえ何者にならなくてもたくさんのジャンルに触れるべき―私の音楽教育考―

みなさんこんにちは、Piantinaです。
先週、2月2日の朝だったでしょうか、驚くべきニュースが入ってきました。

www.asahi.com

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私自身はメールで朝になると朝日新聞のニュースが入ってくるので、たまたまスマホでこの記事タイトルを見ました。
どうやら、あのJASRACが音楽教室から「演奏権」として著作権料を受講料の2.5%を徴収するという話です。このニュースは瞬く間に音楽家、音楽愛好者、音楽教室関係者、教育関係者などの間で大きな話題になり、あるところでは「4分33秒黙っているとJASRACがやってくるぞ」という騒ぎにもなりました。どうやらあのジョン・ケージの「4分33秒」も著作権があるそうです。
名指しで標的とされた大手音楽教室の側は、「音楽教育を守る会」という組織を発足、JASRACと全面的に戦うようです。

「音楽教育を守る会」発足、ヤマハ音楽振興会・河合楽器製作所ほか全7企業・団体 | リセマム

作詞家や歌手の宇多田ヒカルさんらも声を上げています。

音楽教室からも著作権料を徴収しようとするJASRACに「残酷な天使のテーゼ」作詞者が物申す! - BIGLOBEニュース

宇多田ヒカル、自分の曲を「著作権料なんか気にしないで無料で使って」 - エキサイトニュース

 

私Piantinaのこれまでの出会いと今回の件への意見と懸念

ここからは、私の意見を述べさせていただきたいと思うのですが、私Piantinaはただの田舎の教会のオルガニストであり、アマチュアの教会のオルガニストです。プロの音楽家でもなければ、著作権法に詳しいわけでもありません。音大も出てなければ、大学では法学を専攻したわけではありませんのでただの「イチ音楽教室の卒業生で今現在もピアノ教室になんとか通っている」身なので、ハッキリ言って音楽教室に通いながらも何物にもなれなかった素人の中年の音楽好きオバサンの意見でしかありません。

 

 

私は、5歳にほどちかい4歳の時点で音楽教室に通い始めました。本当は4歳半間近で始める予定が、半年遅れになってしまいました。だけども、それはその時点では特に大きな差というわけでもなく、普通に「ほかの子にくらべてどう」という問題もありませんでした。まぁ練習嫌いでしたので、さんざんアンサンブルで足を引っ張ったり、親が先生に「もうやめさせたいのですが」と先生に相談に行ったところ、「むしろお嬢さんは耳もよく音感もいいのでもったいない、続けさせてあげるべきだ」と説得されたというくらいです(若干ほめて留めさせてる?と思いますが)。

 

 

私が通ったのはそれこそ今JASRACから標的にされている大手の楽器メーカー系の音楽教室でした。ただピアノをやるだけならばいっぱい個人で音大をお出になっていらっしゃる先生などたくさんいたであろうに、なぜ音楽教室だったかというと、私にはもうすでに亡くなっている伯父が電気店を営みながら(あまり儲かっていなかったそうですが)、副業として結婚式場のエレクトーン奏者でもあったのです。その伯父が母に「子どもが生まれたら、とくに娘が生まれたら音楽教室に通わせたらいい」と言ったそうです。

 

 

 

伯父は「音楽にジャンルというものはない、クラシック音楽だって昔のヒットソングだったんだから」という考えの持ち主でした。伯父は私が物心ついたころには亡くなっていましたが、生きていたら色々と教えてもらったりアドヴァイスをもらったりできただろうなと思っています。それはさておき、音楽教室での教材は私の時代でですが(昭和末期~平成初頭のバブル期)クラシックもありましたが、生徒のオリジナル作品、と古いものも新しいものも収録されていたように覚えています。

 

 

ある先生との出会い

そんな私にある先生との出会いがありました。もちろん今となっては「辞めるべきでない」と引き留めた先生もしかりでしたが、その先生はまた上級のグレード(指導グレードなど)の試験官になられるということでまた新たなステップに踏み出すということで、後任の先生が私のグループレッスンの担当になりました。その先生はW大学を出ていながらも歯医者さんとの結婚が決まっていて、「音大は出ていないけれどもグレードは持っている先生」でした。

 

 

その先生がまた「ロックから現代音楽からクラシックまで」の先生で、さらに楽典の理論も少し組み入れて教えてくださいました。そして私がたまたまその時期くらいに小室哲哉さんの音楽と出会ってTM NETWORKの曲などを耳でコピー(今なんかそんなことしたらJASRACすっ飛んでくるんでしょうかね?)してピアノで弾いていたりするとほめてくださいました。

 

 

おだてられると登っちゃうタイプなので毎週毎週何かの曲をやっていたように思います。でもそれがきっかけで不思議とピアノに触る時間が増え、練習が苦ではなくなりました。それにその先生が「音大を出ていない」のだから、親も「なら普通の私立大学を出てグレードを取りさえすれば先生になれる」と思ってしまったのです。

 

 

音楽教室卒業後

「学習者のためのグレード」の最上級、6級の試験に合格したら、音楽教室(子どもの)は卒業です。それはちょうど小学校の卒業とほぼ同時で、その後中学高校と受験の隙間にレッスンを個人レッスンで先生に見てもらい、1年浪人の末大学に進みました。そこでパイプオルガンと出会ってまた方向転換するわけですが、そうしてバロック時代、ひいては古楽の時代をも知って、何百年と生きているオルガンを生で見て、さらには日曜日の礼拝を弾く経験もして、朝早起きして大学に行き朝の礼拝を弾く…(もちろんメインの専攻、社会学も20単位くらいオーバーして取得して卒業しましたよ!)という時期を経て社会人へとなります。

 

 

さすがにそうなってくると親にレッスン代を出してもらうというわけにもいかず、自分の稼いだお金から月謝を払うことになります。さらに、親から「せっかくならば講師試験を受けることを考えたらどうだ」と言われたので、講師試験対策をしてくれる教室を、と思ったら今の教室に行きついてしまったのです。結果的には教会の礼拝の奏楽者になったり、奏楽者をやっていたらなんだかなりたて(当時)の聖職者と出会って、神様の導きかさらに結婚して教会に住むという人生になってしまったので、ピアノ講師になることはすっかり諦めてしまいました。

 

 

 

今となっては「大事な日曜日に試験で奏楽をお休みするわけにいかない!!」ということもあり、それにだんだん教会からの「無茶ぶり」に慣れてくると初見能力などもついてきたのでそれはそれでいいのかな?と思うようになりました。でも専業主婦になったからと言って、時間が無限にあると思ったら大間違いで音楽理論の勉強はまだまだ進まずです。で、単なる田舎の教会のアマチュアのオルガニストのおばちゃんのできあがりです。

 

 

多ジャンルの音楽と触れ合って良かったことと今回への懸念

でも、教会オルガニストになっても、ロックや現代音楽、歌謡曲、ポップス、洋楽からクラシック、古楽と「多様なジャンル」に触れてきたことは決して回り道でもなんでもありませんでした。今や新しい、作曲者が生きているような聖歌なんかはコードまでふってありますから、「コードが分からない、Cって何ぞや?次Aマイナー?F?Gセブンス?えええ?なんじゃなんじゃこれ」となっているようなガッチガチのクラシック頭では対応できませんし、ポップな聖歌についていけなかったりしたでしょう。実際収録されているんですよ。

 

 

そして、懸念としては、音楽教室で触れられるのがクラシックだけになる、というだけでなく、レッスン料が著作権料としてさらに引き上げになりさえすれば、「音楽教室に通う子ども」が減ってしまうのではないかと思うのです。毎月の月謝の増額分としてはわずかであっても年にしたら相当の額になったりする、と思うと、今や習い事も多様化した21世紀、ダンスやお料理、ピアノを習うはずの子どもがほかの習い事へ行ってしまう可能性も危惧されます。

 

 

あとは、JASRACが主張している「演奏権」。これはどうやら結婚式場や冠婚葬祭の場でもそうなのらしいですが、「不特定の」「公衆」を前にして演奏されることで発する楽曲使用料なのだろうですが、音楽教室の場合はそもそも入会の際には「入会手続き」を踏んで入っていますし、先生が模範演奏として演奏するものは決して「公」ではなく「特定された生徒さん」を前にして演奏するだけです。その先生のレッスンの生徒さんじゃない人の面前じゃないですし、なんだかおかしな理由だなと思うのです。

 

 

だとしたら、教会だって取られてしまう!とか思うのですが(不特定の公衆)、どうやら宗教団体のそれは対象外なんだそうです。ただ讃美歌、聖歌にも著作権はありますので、古いグレゴリアンとかばっかになるのでしょうかね?それでもいいですけど(笑)

 

 

それに、子どもでもクラシックの良さがよくよくわからなくて、自分の好きなアニメの曲なら練習するよ!っていう子だっています。昔の私と似たようなタイプですね。でも仮にきっかけが「アニメ」でも何でもいいんです。楽器に触れ、さらにジャンルを広げて音楽を愛好するきっかけがあれば、大人は、社会はそれを応援してあげるのが筋なのではと思うのです。きっかけが何であれ「音楽っていいね」と出てきたばかりの芽を大人が、社会が摘んでしまっては何にもならないと思うのです。

 

 

今回のJASRAC著作権料の問題はさらなる「楽器離れ」「音楽離れ」を進ませるものではないかと思うのです。それに私だって今やピアノ教室に通う「高速バス代」だけでもヒーヒー言っているのです。レッスン料引き上げなんてあったらたまったもんじゃありません!!(怒)

きょうから2月が始まります。

みなさんこんにちは、Piantinaです。
きょうからいよいよ2月、2017年も12分の1が過ぎてしまいました。
午前中~お昼くらいまで病院と薬局に行っていたのですが、きょうから東京、神奈川県で私立中学入試が始まるんですね。
今や3割の小学生が受験をされるそうで、「子どもが受験します」という人も見ているかもしれませんし、親御さんもお子さんの受験の準備に忙しいことでしょう。

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かくいう私も20ン年前、中学受験、しました。

結果は不合格でした。

まぁ勉強しなかったというのと苦手科目を放置してしまっていたというのが敗因かもしれませんが、まぁそれでも、その後地元の公立中学に進学するわけですが、高校受験で、大学受験で取返しがつきます。もちろん就職でも。

 


ましてや人生は12歳以降がめちゃくちゃ長いのです。
たとえ満足のいく結果でなくとも挽回のしようならいくらでもある、と私は思います。むしろ12歳で人生決まっちゃったらその後が長すぎてそれはそれで困りますわ。。。でも、「小学校とか中学校とかから私立に行っていてうらやましいな」と思ったのは、大学時代のこと。まぁ私は大学のチャペルで活動をするサークルにいたものですから、やっぱり小学校から、中学から、系列の私立の学校を出た友人のほうがなんだかキリスト教とか礼拝とかのスタート地点が違うのです。

 

 

 

私の場合はずっと地元の公立でしたから、ほぼ知識も世界史でやったくらいの知識しかありません。
だけども友人らは普通に聖書の時間だとか礼拝の時間だとかがあって「いいなぁ」と思ったのです。背景知識だとかが自然と身についているのです。

 

 

 

まぁ私が受けた中学は結局そこも無宗教ですから、かりに受かったとしてもそのままエスカレーター方式で大学に行って就職して、という感じだったかもしれません。
それもそれで楽しく明るい人生だったかもしれません。
ただ、高校に関しては地元の一応「名門進学校」と言われ、某漫画の舞台にもなって観光客が大挙して押し寄せるような観光地になってしまったのですが、行きたかった高校でしたし、十二分に楽しみました。仲のいい友達もいましたし。

 

 

それに後々聞いた話では、「地元でも昔からある県立高校を出ている」というのは地方銀行や市役所職員などになるのにある意味で「アドバンテージ」になるそうです。
まぁある意味「学閥」のようなものでしょうか。
まぁ地銀に受かってもそれはそれでどうなるかわからない時代になってしまいましたし、「安泰」とは言い難くなってきましたがね。
ただ、地元での知名度だとかは「○○高校で」というと「おおっ!!」となる感じでしょうか。
まぁ都市部なので高校名以上に大学名のほうがインパクトがありそうですが。

 

 

 

でも、本当に2月は受験にヴァレンタイン・デーとなんだか「学生さん」の月のような感じがします。
もう年齢的には親世代。
同い年でも早い人なんかはもう今「子どもが受験」とかそういう人もいるような年代になってしまったし、子どものいない私にはなんだかあまり関係のないシーズンだなぁとまるで俯瞰するようになってしまいました。
あ、夫の誕生日があったか。

もしもみんなが3時に帰れたら―妻は魔女なんかじゃない!!―

みなさんこんにちは、Piantinaです。
私のtwitterでもちょっとバズったツイートをもとにして、いろいろ話をしていきたいと思います。

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けっこう何気なく「みんなが3時に帰れたら」と思ったときに出てきた思いがコレでした。我が家は職住一体なので3時に仕事が終わったら3時1分に家に着けるという特異な仕事なので、3時までに終わらせられる作業をしていればそうなります。

 

 

もちろん、3時に終わったからといって上に上がったら上がったで、電話が鳴ったり、来客が着たりと結局終わりようがないのですが、それが不可能ではありません。さらに、プレミアムフライデーなど実施しなくとも、相撲の場所が開いたり、プロ野球のシーズンになったりすればおのずと4時半くらいには上に上がってきてテレビで観戦しているのです。

 

 

もちろんその時間私は夕食の支度をしているわけですが、5時まではOTTAVAをかけています。ちょうど5時で「OTTAVA Liberta」という3時間ワイド番組が終わるので、その終了時刻とともにパソコンをシャットダウンするのです。でもこれが4時半どころか3時に上がって来たら「Liberta Collections」すらまともに聴けないじゃないか!ということになります。

 

 

しかも音楽嫌いですし、「クラシック音楽好きは自分たちが教養人ぶってないで、(人形の)フィギュアヲタクとかプラモデルヲタクとかと同じ土俵に居ると思え!!!!!」と毒づいているものですから、まったく困ったのもです。そんなわかりきったこといちいち説教しないでくれ、と私は思っています。むしろ私レベルじゃ「ヲタク」を自称するにはちっともその域になんぞ達してないのですが。

 

 

 

しかも夕食を「待たされる」ということを極端に嫌う人なので、はっきり言って毎日午後の4時~5時台はいつも精神状態が悪くなります。パニックを起こしそうになったり、落ち着きを失ったりしてまったくもって「自分らしく」いられないのです。できることならば別居、とまではいかなくとも家庭内別居くらいはしたいものです。

 

 

 

案外アスペルガー側にもカサンドラ側にとっても「共生婚」というスタイルの取り方というのはアリなんじゃないかと思っています。つまり家事も寝室も別。ただ同じ屋根の下で”共生”するだけ。離婚や別居にはそれなりにエネルギーが要ります。特に離婚の場合はそれで失うものもあったりもするので(自由は得られますが)、家庭内別居というか「共生婚」ならば十分にそれぞれがそれぞれらしくいられて、お互い気の向いたときに一緒にいるだけ、という感覚でいられるのではないかと思うのです。

 

 

 

でもこのプレミアムフライデーで「3時に帰れる」というのは消費促進だったり、帰りにお惣菜を買って食べたり、どこかで外食したり飲んで来たりという目的のためだったとしたら、「まっすぐ帰って家で嫁の作ったメシを食べる」だけだと、世の奥様方にとっては「早く作らなきゃ!」「テレビの前にいるだけで何もしてくれない!」とあせらせたりイライラさせるだけで余裕をなくすのではないか、と思えてくるのです。もちろん長時間労働には問題がありますが、でもごはんは「手作りで」「手をかけて」となったものほど魔法のようにポンっと出せるわけじゃないのです。奥様は魔女ではないのです。ただの女です。