piantinaの日記

日本のとある教会で弾いてるオルガニストの毒にも薬にもならない戯言

本は読んだものの・・・現実を暴露します。

みなさんこんばんは、Piantinaです。
近頃、悩んでいること(といっても前からだけど)のひとつに、
「夫が私の趣味や大切にしていることをことごとくけなす、暴言を吐く」ということです。

f:id:mayflower81:20170224151841j:plain

こんなにイケメンではないですが(失礼)。素材のモデルさんです。

 

 

まぁこのブログを前々からお読みの方は私が音楽そのもの、聴くのも演奏するのも好きで、クラシックや教会音楽、古楽が好きなのはご存知ではと思っております。そして、教会でオルガンも弾いています。

 

 

これは何年か前ですが、朝BSの放送でクラシックの演奏会を放送する番組があって、結構女性演奏家さんとか衣装とか参考にしたくて、また、いろんな演奏家さんの実際の映像を見るのが非常に勉強になるからと、一応寝ている夫に気を使って音量を小さくして見ていましたが、ある時、「クラシック音楽は権威的で嫌いだ!」とか「クラシックの演奏家を紹介するのになんで何かのコンクールで賞を取ったとかどうでもいいことばかり紹介するんだ!自慢じゃねぇんだ!」とか、悪態をつくようになりました。しまいには「不愉快だ!見たくない!」となり、結局その番組は見なくなりました。

 

演奏家のプロフィールに学歴やコンクール受賞歴などが書いてあるのは、「次の仕事につなげるため、プロモーションや就職活動のため」なんだそうです。ある演奏家さんに教えてもらいました。クラシックの演奏家だと芸能事務所などに所属していませんし、個人で活動されている人も多いですからね。

f:id:mayflower81:20170224154343j:plain

ほかにも「クラシックのコンサートは嫌いだ!」というのもあります。
これはなぜなのかというと彼の好きなアイドルのライヴと違って「客席に座ったまま」を強制させるのが嫌いなんだそうです。
でもあるツイートがありました。

 そう!アイドルのファンってたしかにTシャツ着てる。そのアイドルの。
光る棒もありますねー。ヲタ芸もありますし、曲中に「ジャージャー」だのなんだの言ってますね。しかもスタンディング。まぁこれは別にいいですけど。OTTAVAのコンサートとか行っても別にOTTAVAグッズ持ってなくても(私なんかバッグ持ってないですよ!ハンカチとかステッカーはありますが)別に排除されません。光る棒を振り回すこともなければ(作ります?)せいぜい言うのは「Bravo!Brava!」くらいなものです。それも最後にね。めちゃくちゃこれ言うのはタイミング見計らわないといけないですが。

 

 

その他には、音楽全般をDisることもあります。
どうやら彼にとっては音楽は「その場の空間を支配するもの」で「逃れようがないもの」なんだそうです。そりゃそうです。それが嫌なんだそうです。だけども、礼拝に音楽あるじゃないですか?歌だって歌うじゃないですか?まぁ歌も音楽もない礼拝もやってもいいですが、それはそれでどうでしょうね?カルヴァンは音楽嫌いで改革派は一時期音楽のない礼拝を捧げていたそうですが…でも、なんだか「それってさ、礼拝学で学んでこなかったのかい?」としか思えません。音楽の発展に教会は欠かせなかったわけで。ところによってはバンドが賛美したりするのくらい、私でも知ってます。

 

 

なんでしょうね、結局こうもいろいろあると「夫はもしかしたら私をもう愛していなくてただのオルガンを弾く家政婦」くらいにしか認識していないかと思います。これはもうしょうがないですね。人の趣味をけなすわりに、情緒的なコミュニケーションは何にもできないのですから。まぁもう期待も何もしなくなってしまいましたが。

『夫がアスペルガーと思ったとき妻が読む本―誰にもわかってもらえない”カサンドラ症候群”から抜け出す方法―』を読んだ。

みなさんこんにちは、Piantinaです。
謝礼をいただいたので、少しはOTTAVAクラウドファンディングに(やっぱり音楽で得たものは音楽に返したいと思いまして)、あとは本を買い、シルクふぁみりぃさんでまたしてもたくさん買ってしまって…。

 

 

Amazonで注文した本の中にはこの本も買うことにしました。
実はこの本、リアルの書店で見たことがあって、「買おうかな」と迷ったものの、「やっぱいいや」であきらめたものの、何かでAmazonを見てて、たまたまこの本のレビューを見たらすごく高評価。「ええっ?!買っておけばよかった……」と後悔して、いただいた謝礼で思い切って買うことにしました。

 

 

以前からいろいろと「アスペルガーのパートナー側」に向けて書かれた本というのはいくつも読んでいますが、だいたいが英米(?)の著者なので、若干「日本ならでは」の感覚がなかったなぁと思いつついました。逆に私はクリスチャンでもあるので海外の著者の「アスペルガーと信仰」的なところの部分は「ほほう!なるほど!」と思う部分もありましたがね。聖書ヲタクのAS男性とか、信仰熱心のクリスチャンのASとかは。

f:id:mayflower81:20170224120834j:image

著者の宮尾益知氏はよく発達障害関係の著書の翻訳などもされており、この本は心理士の滝口のぞみ氏との共著という形になっています。

 

そもそもは「子どもの発達障害」から始まった

本を読んでみると、「アスペルガー×カサンドラ」の夫婦の話からなのかと思いきや、最初は「神経発達症」の子どもの育児の問題から始まって、子どもの当事者とお母さんのカウンセリングや治療をしているうちに、母子家庭でもないのに「お父さん」のエピソードが出てこないところから始まったようです。

 治療について私たちが心がけたのは、まず子どもを良くすることでした。保護者には子どもが良くなってからアプローチするのだと決めていたのです。子どもが良くなれば、母も自分自身を見る余裕ができます。(略)
そこで気がついたのは、まるでシングルマザーのように、母から父の話が全く出てこないことでした。彼女たちにいろいろ聞いていくと、父はとても忙しく、休みの日に子どもたちを公園に連れて行ってくれるという話でしたが、父が登場するのはそのようなときだけでした(6ページ)

また、

話を聞いていたお母さんたちの中には、うつのお母さんもたくさんいました。
子どものことを離れて夫婦のことに話を移していくと、父(夫)が自分のことをわかってくれない、セクハラ、パワハラ、DV等の話と、子どもを理解することができず、子どもに対する虐待まがいの話まで聞こえてきました。(6~7ページ)

ともあったのです。つまりは「子どもを見ていたら、どうもお母さんの話ばかり、お父さんはとなったらなんだかこれは大変そうだぞ」ということだったようです。そこで、宮尾氏はアストンの「カサンドラ症候群」と出会うことになったそうです。

 

 

世間やメディアからの「結婚する前にわからなかったの?」「女性の自己責任」という冷たいバッシング

この本には発達障害の子どもとその親との「家族単位」でのカウンセリングや治療での話から、「なぜ結婚に至ったか」 「新婚生活、妊娠時に傷ついたこと、子どもを持って変化したこと」「子どもが学童期になった時の困りごと」「お金に関する葛藤」というごくごく家庭で起こりうる問題や、実際のトラブルなどについてきめ細かに書かれています。

 

 

でも、本当に「結婚する前にそういう人だってわからなかったの?」とか「あなたの自己責任」とかは言われます。人に直接言われるというよりは、「カサンドラ症候群」がメディアに登場すると、テレビに登壇している芸能人の方の何気ない発言ですとか、その番組を観ているネットユーザーなどのツイートを追うと「むしろ発達障害当事者側からは迷惑!」「発達障害者は結婚しちゃダメなんですね」と言われたりして「心無いなぁ!」「ホント、信じてもらえないよ!」ともう乾いた笑いが出てきそうになります。

 

 

読み進めると「あ!これはある」と思うところと、我が家は子どもがいないので、子育てに関してはちょっと予定もないし、あまり関係ないかな…と思うところもありました。お金に関しては……借金作るほど浪費家どころか「ケチ」です。しょっちゅうコンセント抜いたりして(地味に困る)。

  

「子どもはいらない!」のならせめてはっきり言ってほしかった

読んでいて、「本気で子どもはいらないと言うASの夫」という項目がありました。
我が家には子どもはいません。子どもを持つ予定もありません。それどころか「子どもを持つための何か」もしていません。不妊治療とか。タイミング?とか。でも、「はっきり”子どもは欲しくない!”という人がいるんだなぁ」と思いました。

 

 

我が家は夫はASですが、子どもに関しては話をするとはぐらかされるか、話を変えられるか、その話は無視されるか、「自分の子どもを持つこと」にはあまり触れてくれませんでした。ただ、赤裸々な表現ですが、夜の生活もありません。でも、何も言わずにいるのならむしろあえてハッキリ「俺は子どもはいらない」と言ってほしかった。というのが私の本音です。

 

 

そうはっきり言ってくれれば、一時的には傷ついてすごく落ち込んだかもしれませんが、もっと早く「子どもを持つこと」を潔く諦められたと思っています。そこは「そういう本音を言ってPiantinaを傷つけたくない」という妙なやさしさなのかもしれませんが、30代の前半をなんだか悩むことばかりに費やしてしまった感があります。私の時間を返してくれ!と思いたいですが、時はすでに遅し。それに、もう私のほうが諦めてしまいました。

 

 

”信じてもらえない”カサンドラが希望をもって次に進むための本―「愛してしまおう」とはこういうことだったのか!―

私はこの本の凄く評価したいところはよく相談などにある「もう別れちゃいなさい」「離婚しなさい」「別居すれば?」という答えでもないところです。それと「苦しい、つらい、と思っていてもあなたはどこかで彼を愛しているのでは?それならば、コミュニケーションをわかりやすくして”修復”をはかることができるのでは?」というところです。つまり「別れ」が必ずしも「100点満点の答え」ではないよ、ということを提示しているところです。

 

 

もちろん、別居して自分を取り戻した人も私は存じ上げていますし、離婚された方も知っています。でも別居も離婚もどちらもサポートや経済力がないとできませんし、離婚に至っては結婚以上のエネルギーが必要とされるともいわれています。それに私の場合は教会の人間なので、やはり聖婚式式文にある「神が合わされたものは、人は離してはならない」という最後の宣言がひっかかるのです。つまり、神様が合わせた2人は、第三者が入って引き離す(つまり不倫)ことも、自分たちで対立しあった結果「離別する」となってもいけないことなのです。

 

 

近年では離婚に一番厳しいとされるカトリックでも離婚はタブー視されなくなったそうです。だけども、緑の紙を取りに行こうなんて思うときにふと「あんなに大勢の前で誓ったことを無下にするのかい?」とも思うのです。そこに結婚式をする意義があるのではないかと思うのです。お金はかける必要はありません。たくさん人を呼ぶ必要もありません。でも、そういう「つなぎとめる何か」に「結婚式の思い出」や「子ども」があるのかもしれません。

 

 

あるカサンドラ本には「(特性を)愛してしまいましょう」とありました。
「愛するためのヒント」が、ここに書かれています。

稼ぐ額よりも、いかに家族に感謝され信頼されているかが主婦の勝負所。

みなさんこんばんは、昨晩こんな記事を見つけました。

news.careerconnection.jp

別に学歴を自慢したいわけじゃないですが(自慢にもならないからw)、都内の有名な私立大学を出ています。名前を言えば「あああの大学ね!」と言ってもらえるような大学を卒業しています。卒業はできましたが就職にあまり恵まれず、しかも資格も持っていなかったのでずっと非正規、非正規でさらにメンタルも病んで、一歩間違えれば実家には住んでいるけれど貧困女性まっしぐらというところでした。とりあえず、教会に通うクリスチャンでよかった。とりあえず、学生時代に礼拝でオルガンを弾くという経験をしておいてよかった。

 

 

結婚後に仕事を辞めたのは、よくある理由で「夫に転勤の辞令が出たから」。
通える距離にもなく、実家に平日居ながら土日だけ夫と過ごすという生活をしてもよかったのかもしれませんが、そこまでしてしがみつく仕事ではなかったからというのもあります。続けていればよかったかなとも思いますが、やはり夫の職業上、「世間体が悪い」のです。妻があまり外に出ている、という状況は。

f:id:mayflower81:20150520103306j:plain

だけども、私のように転勤で、という理由もあれば、出産子育てが理由で、という人もいますし、介護が理由という人もいます。だけどもそもそも現代日本で「名の通った大学(国立私学問わず)を卒業するのが就職のためのパスポートなのか?」という問題もあります。そもそも大学というのは「学問をするための機関、学術研究のための機関」と私は認識しています。

 

 

それに、「女子ながら」の理由もあります。
「将来の結婚相手に出会う場」でもあります。私の周りで30歳前に結婚した人たちは学生時代に出会っていたり、学生時代から付き合っていた人たちでした。30歳くらいになってくると職場などでの出会いになりますが、「子どもを持つこと、子育ても考えて」ということを視野に置いているのならば、学生時代に出会っておくのが一番だと思います。

 

 

なぜならって?
社会人になると圧倒的に出会いが「ない」。学生時代の方がよっぽどあります。
周りの人はだいたい結婚していて子どもがいる。
そういう状況なのです。若い人でも独身かと思ったら「婚約中、近々結婚します」という人だったりしますしね。

 

 

それにだんだん社会人になってくるとどうしても「利害関係」だとか「この人と結婚して何が得られるんだろう」とかあれこれいろいろ考えたら逆にどんどん縁遠くなっていくのです。その点、学生時代のうちだと曇りのない目で相手を見ることができますし、利害関係のない友達関係からだったりすると「この人がどういう人か」がわかって結婚できるのです。

 

 

あと、私の場合は学校を出てから何年も経って夫と出会いましたが、夫の上司(というと変かも?でも人事を決めることはできるし)に当たる方に近々結婚する意思があるという報告をしに行ったときに言われたのは「この仕事の奥さんとなられた人で独身時代の仕事を続けられた人はほぼいない」と言われました。今となってはわかります。転勤もありますし、どこか「外にしょっちゅうでかけているのを嫌がられる」ところがありますし、「できてパートしかできない」という感じです。

 

 

でも、果たして「時給800円」でもたとえば家族のために家事と仕事を両立させていたり、家族に喜ばれている、お母さん(奥さん)のおかげでほかの家族が安心できる、のならパートでもらう時給以上のことをその主婦はしていると思うのです。むしろ億の単位でおかねをあちこっち動かしているだけの人のほうがどれだけ「人に感謝されている」のでしょうか?

 

 

話は変わります。
今朝twitterを見たらこんなツイートがRTで回ってきました。

う~ん、たしかに一見「それって趣味って言えるものなの?」な女性はたくさんいます。
着るものだったり、料理だったり、裁縫かもしれない。メイクとか。実用につながってしまってるというか。
私はたまたま幼いころから音楽に接していて、結局聴くのも弾くのも歌うのも見に行くのも好きという人間なので、お金と相談しながらインターネットラジオ局OTTAVAの支援をしたり、コンサートやクラウドファンディングのCDを購入したりしています。

 

 

でも夫は私から音楽を取り上げたら「寝込むほど病むか死んでしまう」と思っているので、そこは取り上げないでいてくれています。まぁいちいちクラシック音楽をDisったり、音楽そのものdisったり、なんだかもう「あなたはこんなにも言葉で人のことを傷つけて楽しいのか?」と。

 

 

で、本人にまったく「罪悪感」というのもありません。まったく妻を何だと思ってるんでしょうね?傷つけていい何か、何言ってもいい存在なんでしょうね。そこに愛なんてないと思います(ちょっとこの話はまた別の話で書きます)。暴力はなくとも暴言はひどいです。どこぞの国の大統領閣下の暴言なんかよりもひどいです。

 

 

で、とにかく。まぁ毎日クラシック音楽インターネットラジオは聴いていますし(かけっぱなしというか)、まぁ弾くほうはどうしても住宅事情があってなかなか弾けないでいますが、たまに様子を見て練習をしたりしています。それにやはり和声を勉強して大分「譜面を見て、読んで」弾くようになっているので、指のほうは恒常的に動かしているから大丈夫と先生に言われるくらいなのでその辺はいいかと。

 

 

でも、姉も趣味がありますし、母もどうだったかというと、それこそ姉と私が幼い時代は「ワンオペ育児」でしたが、私が小学校に入り、姉が中学に入り出したら仕事を始めました。もちろん結婚前にしていた仕事ではありませんが、職場を見つけて、です。私が中学受験でいったんその職場は辞めましたが、私が地元の中学に入ったらまた別の仕事を始めて、職場で友達を作り、食事、テニス、ときには旅行に行っていました。そのころ姉は大学生、私は中学~高校生。まぁ「指示書」が書いてあればそのとおりにできる年頃です。

 

 

母がさらに私をして「達人」と言わしめるのは「家でもできる趣味がある」こと。
常にラジオかテレビがかかっていたのですが、バッグやバレエのトゥシューズ入れ、いろんなものを作っていましあたし、結構レベルも高かったです。洋裁学校に通っていたというのもありますが。子どもの時には服も(!)作ってくれましたよ。ミシンがあって。編み物、刺繍、ビーズアクセサリー作りという趣味まで持っているのです。

 

 

それを「無趣味」と片付けられますか?と私は言いたいです。
なんだかこう、「普通の主婦」をどんどん肩身を狭くさせてなにが楽しいのだろうな…と思った話でした。さっきの話と無理やりつなげれば、「教育年数が長く、教養があるということは”趣味を持ちやすい”のではないか」とも思うのです。

 

 

つまり、家の中で料理のレシピを研究したり、学習経験が家事能力がなくても「調べる」癖がついていますから、やり方がわからなくても調べて解決したり、時給800円のパート生活でもどうにか生活が回るように工夫してみたりということができる「ポテンシャル」ももっているのではないかと思うのです。

先週はご葬儀が2件連続でありました

みなさんこんにちは、Piantinaです。
しばらく間が空いてしまいましたが、これは先々週末に立て続けに訃報が入り、ご葬儀を2件連続で執り行わなければならなくなったので、ブログどころか、葬儀のことがきちんとできるか、葬儀の聖歌が弾けるかなどで忙しくしておりました。

 

f:id:mayflower81:20160524200711j:plain

こんな立派な楽器ではなく、ポータブルキーボードでしたがね。試験的に献花の時に音量を落として奏楽をしてみたりしました。

 

いつだったかこのブログで「東京に泊まりがけで発表会に出たらお金が翼を付けて飛んで行ってしまって、不謹慎は承知だけど葬儀が2件くらいあったら」なんて書いちゃった自分を痛く反省しております。まさかこれは「デスブログ?」と思ってしまいましたが、私がそう書かなくても、もしかしたら「運命、さだめ」だったのかもしれません。

 

 

とにかく先週(2月12日(日)夜~2月15日夕方)までは結局それだけで手いっぱいになっていました。途中なんとか買い物とか洗濯とかできなかったわけではないですが、洗濯物を干しながら「家政婦が欲しい…」と思ってしまいました。猫の手でも借りたかったのですが、猫は……役に立ちませんでした。

 

 

 それはさておき、先の1件は地元だったので、移動に時間がかかったり、「遅刻しないように行かなくては!」というのはなかったのですが、ただ、「炉前」の地域でしたので、出棺前の嘆願をしに7時に家を出て車で葬儀会館まで車で走りました。そのくらいでしょうか。でも気候的に寒すぎもなく、穏やかな天気の中、埋葬までを終えることができました。

 

 

よくよく夫に同行して(オルガンの奏楽者として)いるとキリスト教の葬儀に出た経験のない方から「キリスト教式ではどうなんですか?」という質問をあれこれ受けたりします。献花でお花はどう向けるべきかとか、「御仏前?」「御霊前?」「御花料?」と聞かれたりとか。

 

 

お花はどちらに向けても。特にうるさい決まりはありません。でもだいたい棺にお花が向くようになっています(前の人に倣ってやっているというのもありますが)。一応一般常識としては「御花料」が正解、とされています。カトリック教会でしたら「御ミサ料」です。わたしのところは一応「プロテスタント」に属しておりますので「御花料」です。

 

 

キリスト教の葬儀って歌なんか歌うんだねぇ!なんかいいなぁ」と言ってくださったり、「歌が心にしみました……」と感動して泣かれる方もいました。
一方で、特段「細かなことは地域のしきたりやその家のしきたりに従います」というスタンスであるから、困ったこともありました。

 

 

2件めの葬儀では火葬場で炉の前でお祈りをささげた後、火葬するのですが、問題はその後に起きました。ご収骨のときです。通常は2人で箸をもって1つずつ骨壺に入れますよね?
私どものスタンスではその地域やそこの家のしきたりに従います、ということでいたら、ご遺族の方が「1人1人箸を持って入れてもいい」と言ってしまい、帰りのバスの中で「ウチの地元の火葬場と違う!」「ウチの火葬場のほうが職員の方の扱いも丁寧で半ば儀式の一環のようにやっている!」と不満たらたらでした。

 

 

夫は離れて座っていたので、たまたま近くに座っていた私がかわりに「キリスト教式ではそういう火葬に関するものはお祈りくらいしか定めているものがない」ということと「日本以外のキリスト教国では火葬ではなく土葬がメジャーなので、そういう細かな決まりがないのです」という説明をしました。

 

 

確かにその方の地元(私の地元でもありますが)の火葬場は広域で新しく、職員さんも丁寧ですし、あまり「悲しくない」のです。「炉」という感じもなく、別室に行く、という風に設計されていて(そういう専門家の方がそう設計されたのでしょうかね?ご遺族の方の悲しみを軽減できていいと思います)私も「いいな」と思っていました。どうも幼いときに連れていかれた葬儀のトラウマもありましたので。

 

 

まぁその週はそれでいっぱいいっぱい。さらにしばらくして日曜日を迎えたわけですから、もう疲れがすごかったです。

私の「タラレバ」をお話しします。

みなさんおはようございます、Piantinaです。
今週のお題「私のタラレバ」とありますので、「私のタラレバ」を話します。

f:id:mayflower81:20170208144157j:plain

  

もし、中学受験に失敗していなかっ「たら」

私は、実は中学受験をしていました(過去の記事にあります)。 

mayflower81.hatenablog.com

 まぁ結果は不合格でしたが、受かってい「れば」、中学から大学までエスカレーターでした。制服もありませんでしたから自由に服を選べました。でもそれはそれで結局制服っぽいコーディネートになっていたであろうと思います。まぁ高校受験、大学受験を経験しない上に、私学の方が公立の学校教師よりも最先端の研究をされている先生が教えていたりなどして、それはそれでレベルの高い教育を受けることができたでしょう。

 

 

でも、地元の公立の学校を出ていることが人生において「ダメ」だったのかというと、そうでもありません。「地元でのコネ」ができます。特に県立などの名門校などに進んでいれば「地元で就職したい」というときに非常に有利に働くこともあります。一概にこれは「良い、悪い」とはいいきれません。

 

 

もし、10年といわなくとも干支は同じで一回り先に生まれてい「れば」

私はいわゆる「氷河期世代」のしっぽあたりに相当する年の生まれです。
せめて10年、といわずとも、干支が一回り先だったら就職はバブル時代でした。それで私の大学でしたら、就職は引く手あまただったかと思います。いくつも内定を取って「どこにしようかな…」と悩み、そしてゆるく数年働いて結婚、続けたかそれとも退職して子育てしていたかわかりませんが、いわゆる「親が望んだ普通」が苦労なく手に入れられていたのではと思うと…。

 

 

だけども、その後バブルが崩壊したり、リストラがされたり、その後ITバブルとリーマンショックなどがあったりしてそれはそれで、大変。12年上ですからちょうど今なんか子どもにお金がかかるような年頃。その時に「はぁ、これまでイージーモードできちゃったけど、今は大変だわ・・・」となっていたかもしれません。

 

 

もしも、定型発達の優しい夫と結婚してい「れば」

これはありますね。もし夫が定型発達者だったら、夫となる人が定型発達者だったらどんなに今のような苦労がなく、仲良くやっていけていただろうな、と感じることはあります。たとえ収入が高収入、安定した職と限らなくても、自分といろいろなものを共有できたり、また相手からもいろいろと共有できてそれはそれで幸せな結婚生活だったかと思います。

 

 

定型発達者だったら普通に子どもを持って普通に子育てできたんだろうな・・・と思ったりしているのですが、まぁこればっかりは「大人になってしまった」人を定型発達者か、それとも発達障害者か、見分けることは非常に難しいかと思います。ただ、専門職や研究職、医師や薬剤師、高度な専門知識を必要とする職業には発達障害者の人の割合が高いかと思いますので、そのあたりはよ~~~く相手を観察しておくことが大事かもしれません。

 

 

ただ、唯一、「夫は発達障害」で良かったことといえば、「哲学することができた」ということでしょうか。またそのことでいろいろと自助グループの集まりに出てみたり、本を読んでみたりもしました。「夫婦とは」とか「なぜに夫はあれほどまでに人を傷つける発言をしても平気でいられるのだろう」とか、いろいろと思考、哲学できたと思うのです。さらに「もう普通に”いい”とか”良くない”とかの評価されるのはやめてしまおう」と開き直れたという点ではなんだか図太くなれてきたかと思います。体形同様(笑)だって悩んだりうだうだしている間に時間が経ってしまうんですもの。もったいない。

 

 

 

そんなわけで「私のタラレバ」を話しました。
他にも「タラ」「レバ」はいっぱいあります。
結論としては……まぁなんだかいろいろあるけど他の道を行っていたら、他の人生を歩んでいたら、とは思うものの、なんだかんだで自分に満足しているところもありますし、逆に「変わるのが嫌だな」と思うようになってしまいました。もちろん悩むときも深く落ち込むこともあります。激しく怒りたくなるときもあります。でも、どれもこれも「私」が生きる道。それならまぁ「今をどうやって生きるか」にフォーカスを当ててるほうがやっぱりいいやと思えるのです。

『沈黙―サイレンス―』を観た。

みなさんこんにちは、Piantinaです。
先日、今週の月曜日についに、「沈黙―サイレンス―」を観に行ってきました。

f:id:mayflower81:20170208131758j:plain
一応、写真のタイトルが「教会 長崎」とあったので、使わせていただきました。写真そのものは素材サイトから引っ張ってきたものです。

 

『沈黙』と聞いて、文学に詳しい人、もしくはクリスチャンの人だと、「ああ!遠藤周作の!」という反応でしょうが、そうでない人は「えーっと、高校の現代国語でやったっけなぁ…」くらいの反応かもしれません。かくいう私も恥ずかしながら現代国語の教科書にたまたま『沈黙』が掲載されていてその個所を読んだのみです。

 

 

 

高校2年でそろそろ大学受験などを視野に入れ始めないといけない時期でもありましたし、結局その頃は英検を取るのに忙しかったり、ピアノをやっていたりしていましたので、文庫本を一冊買って読んでみる、ということができずじまいのまま大人になってしまいました。

 

 

まぁこんなどうしょうもないダメクリスチャンもいます、ってことで。まともに聖書も読まないですし、礼拝はここ数年はなんとか全出席、オルガンも弾いています。だけども神学やら礼拝学やらの知識などを深めることなく「なんとな~~く、ゆる~~く」教会生活を送っているだけの私です。

 


で、「ダメクリスチャン」な私(これでも教会に通って10年超えてるんですけどね、お恥ずかしい)が改めて遠藤周作さんの代表作であり、今回アカデミー賞受賞歴もあるマーティン・スコセッシ監督がメガホンを取った「沈黙―サイレンス―」を観て感じた事をお話しできたらと思っています。

 

 

 

人間は、みんな弱い。

まず、この映画を見て感じた印象はこれでした。
つまり、隠れキリシタンの村人たちはもちろんのこと、ロドリゴの師・フェレイラも、ロドリゴも、キチジローも、「弱い」。
そして「隠れキリシタン」を取り締まる長崎奉行所の井上も、役人たちも「弱い」。

 

 

なぜなら、彼らも「幕府、将軍」に対して思い切ったことができないし、命令に従っているだけ。そしてその当時の幕府将軍の徳川も日本人がキリスト教徒になって、キリスト教人口が増えてしまったら自分らの統治が効かなくなることを恐れていたことでしょう。

 

 

なぜなら、キリスト教というのはその時代の統治者よりも「神(父である全能の神様、そのひとり子であるイエス・キリスト聖霊である神の三位一体の神)」を信じるわけですから。昔々にさかのぼれば古代ローマの統治者もキリスト教が広まるのを恐れました。つまり「いかなる政府、政治権力に対してアンチ」なわけです。ぶっちゃけちゃえば。

 

 

でも、思うのです。
「強い人間っているのですか?」と。
人間は人間である以上限界だってありますし、時に応じては何かに「従わなければいけない」時だってありますし、いつもいつも全力で元気いっぱい、一定量の力を出し続けられる存在ではありません。時には病気やけがだってします。ココロを病むことだってあります。おそらく人間が強かったら「神」を必要としなかったのでは?と思います。まぁもちろん個人の思想上「神」という存在を必要としない人たちもたくさんいることは私もよく存じております。

 

 

そして、フェレイラやロドリゴのような聖職者も知っていますし、キチジローなんかは何度も踏み絵を踏んでしまってはロドリゴのところに「懺悔」をしに来ます。案外私とよく似ていてついつい流されてほかの怪しげな思想やらトンデモ科学などに触れちゃったりするんですが、でも「ごめんなさい~!!やっぱり教会に戻ってきたんですぅ~!!明日から悔い改めて生きます!!神様許してください~!!」となっちゃう。

 

 

まぁああいうタイプの人は私のみならずもちろん教会に普通に通っている人にもいます。なかなか教会にコンスタントに来れず、ある日突然「礼拝に来ました~!!」というタイプの人。窪塚洋介さんの演技もすばらしかったのですが、すごく思い入れを入れて観ていました。 

 

 

そして、気づいたこと

そして、気づいたのは、この映画、小説を丹念に、丁寧に表現されていて、ロケ地はもしかしたら長崎ではなく台湾ですとか中国だったりするのかもしれないのですが、時間としても非常に長いです。当初上映時間を見て「途中で絶対トイレに行きたくなるな」と思ったのですが、直前に行ってなんとかギリギリ持ちこたえました(笑)

 

 

で、私が教科書でやった『沈黙』の箇所というのは本当にクライマックス、まさにロドリゴがフェレイラから「棄教か、信仰を貫いて殉教か」という究極の選択を迫られるそのシーンだったというところです(あまりしゃべるとネタバレになりそうです)。

 

また、これは映画の感想をtwitterで分かち合った方から聞いた話なのですが、最後の方は遠藤周作自身が描けなく、お弟子さんが書いたけれどもうまく表現できなかったというところを、スコセッシ監督がうまく補完させたということでした。ロドリゴ自身は表面上、表に現れて神や聖書、祈りといった「キリスト教的」な色は一切出さない、そして名前も日本語の名前が与えられます。完全に日本人に同化して暮らすわけです。

 

 

 

現代のクリスチャンも「隠れキリシタン

私自身は今はただの専業主婦で、さらに子どもがいないので社会との接点が非常に少ないのですが、働いていた時代や「教会外の」人たちと接するときというのは極力自分から「キリスト教色」を抜いて接しています。それでも、クリスマスが平日にあたって、仕事を休まないと教会に行けないような時もありましたから、結構ギリギリのところでやっていたところもありますが、そうでないときは人から聞かれない限り「自分はクリスチャンだ」とは言いません。労働基準法上は「宗教、信教を理由にした解雇」は禁止になっています。そうですよね、大本の現行憲法すら「思想、信条、精神の自由」を謳っているわけですから。

 

 

おそらく、オウム真理教の事件以来、「ひとつの宗教に所属していること=マインドコントロールされて騙されちゃったかわいそうで弱い人で自分のお仲間を増やしたいからと猛烈に勧誘してくるのでは」という印象を与えてしまっているのですね。それ以上に「クリスマスをお祝いして、除夜の鐘をついて、初もうでに神社に行く、お宮参りや七五三やって結婚式はキリスト教式、葬式は仏式の自分たち日本人は宗教に寛容なの!」という考えをしている人の方が「なんだかなぁ」と思うのです。

 

 

一貫性がないことを問題だ、というわけではありません。
むしろ、そういう「自分たちって寛容でいい人たちなんですよ」と表だって主張することに「ある種の傲慢さ」が出ているのです。わかりやすく言えば「いい人アピール」ってやつです。「いい人」がしたかったらそういう余計なことを言っていないで、黙ってそれぞれの宗教を理解し、リスペクトしているほうがよっぽど素晴らしいと思うのです。

 

 

そんなわけでダメダメな向上心のかけらもないクリスチャンの私があの遠藤周作さんの代表作『沈黙』を巨匠マーティン・スコセッシ監督の「沈黙―サイレンス―」を見てきて思ったことを書いてみました。映画として見ても素晴らしい作品だと思います。それにちょうど昨日、大阪でユスト高山右近列福され、カトリック教会での「福者」となりました。安土桃山~江戸時代初頭の日本とキリスト教に注目が集まっているようです。

続・たとえ何者にならなくてもたくさんのジャンルに触れるべき―私の音楽教育考―

みなさんこんにちは、Piantinaです。
昨日「たとえ何者にならなくてもたくさんのジャンルに触れるべき―私の音楽教育考―」という記事を上げさせていただきました。この記事は続編というか言い足りなかったこととかです。

 

mayflower81.hatenablog.com

 

f:id:mayflower81:20141215141505j:plain

 


長々と(3000字以上!)自分の音楽とのかかわり、今に至るまでの音楽とともに歩んだ私の半生(約30数年間)を振り返りつつ、時に音楽をすることが嫌になったり、時に音楽によって助けられたリ、音楽によっていろんな人たちと出会うことができた、という思いと、著作権料を取られるからとレッスン料が値上げになったり、いろんなことを音楽教育に携わるプロの方が委縮してしまって将来の音楽を担うであろう(演奏家でも聴く側でもどちらでも)子どもたちに「この世にはいろいろなタイプの音楽があるんだよ」と教えたり背中で示したりすることができなくなったら、という思いも書きました。

 

 

というのも、私の音楽教室時代の仲間たちは後々、母親同士で会ったりして近況などを話すと、卒業した後もなんだかんだで「音楽とつながっている」のです。男の子はさすがにやっぱりバンドですかね。ギターなどをやったりしていたようです。女の子だと吹奏楽部に入ったり、ピアノを続けたりいろいろ。私は吹奏楽部には入りませんでしたが。

 

 

中には吹奏楽部に入って、そこから音大に入ったという話を風の噂に聞いた人もいます。ほかには自衛隊の音楽隊に入った人も知っています。まぁキリスト教の洗礼を受けて教会のオルガニストになって、教会にお嫁に行ったなんて人はきっと私だけかもしれませんが(笑)まぁ私の周りだけですので、そうじゃない人たちもいっぱいいるかと思います。

 

 

音楽教室を卒業した人たちが必ずしもプロの演奏家や教師や何かにならなくても、「一生の趣味」として、または「鍵盤楽器を演奏することができることで教会で奉仕をすることができてみんなの役にたっている(…と私は思いたい)」という卒業生の姿を当時の先生方が見たとしたら、感動のあまり涙が出てくるのではないかと思うのです。たとえなにがしかのコンクールで賞を取ったとかそうじゃなくても。アマチュアバンドだったとしても。もし私がピアノの先生だったら教え子がそうやってピアノでなくても別の楽器でも音楽を楽しんでいる姿を見たらそうなっているだろうな、と思います。

 

 

子どもに音楽を教えるというのは、大人側から「世の中にはこんな種類の音楽や楽器があるんだよ」と音楽のいろいろなことが書かれたカタログを見せるのと同じことなのではないかと思います。何を選択するかはその子の自由。クラシックのピアノを極めたいでもいいですし、ロックミュージシャンになったっていい。DJになったっていい。はてまた民族音楽とかキリスト教教会音楽の大海で溺れていたっていいわけです(←これ私w)