piantinaの日記

日本のとある教会で弾いてるオルガニストの毒にも薬にもならない戯言

3.11―あの日からもう4年、まだ4年―

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写真はイメージですが、同じ空の下、東北のいち早い復興を祈念して。

 

みなさんこんにちはasterixxxです。
今日は3月11日。言わずもがな、すでに色んなところでも言われている「東日本大震災」と「福島原発事故」から4年です。今卒園式の練習をしている保育園の子どもたちはぎりぎり生まれていたかどうか微妙なラインです。生まれていても1歳か2歳でしょう。もっと下の子どもたちは「震災を知らない」子どもたちです。

 

 

直接の被災はしていなくても

私自身は関東に住んでおりましたし、今もそうしていますので、この震災に関しては「生まれて初めて体験した大地震であるとともに、福島の原発事故の放射能におびえていました。4年前の今頃は仕事をしていましたが、ちょうど震災が起きた時間は遅いお昼休みを取っていました。というのも金曜日で土日休みの仕事をしていましたので、金曜日は作業が長くなってしまったので、お昼を14時から取ることにしました。

 

4年前の自分の状況をお話します

当時は自作のお弁当を持ってきていましたが、それだけでは栄養的にちょっとバランスが悪いのでミニサラダを買ったり、「金曜日」なので自分へのご褒美という感じでコンビニスイーツなども買ってきて食べていました。そして食べ終わって、「さぁ、トイレにでも行こうかな?」と思った瞬間、大きな揺れを感じました。すかさず頭を守るため机の下に入りましたが、モノが落下することはなく無事でした。

 

 

私自身のやっていることは今とそうそう実は変わらないことでしたし(単にブログを更新し続けるという点に関しては笑)、手近にパソコンがあったので、起きた地震についてみんなで調べて、とても冷静に仕事ができるような状態ではなく、刻々と明らかになっていく情報にみんなが釘付けでした。東北に親戚や実家のある人は「実家が心配」と不安げでしたし、上司の指示で「家に迎えに来てもらえるか連絡をしたほうがいい」と言われて実家に電話をかけるも電話が通じない。実は隣の市の実家は地震発生と同時に全市停電となり、電話が通じなかったのです。携帯も通じませんでした。

 

 

電車がすべてストップしてしまったという情報が入り、上司から「日が暮れないうちに帰ったほうがいい」と言われて、作業は中断して「歩きで」帰ることにしました。線路沿いに歩いていけば家にたどり着くというのはなんとなくわかっていましたので、線路沿いにずっと歩いて帰りました。

 

 

実家のある市境に到達したときには周りは真っ暗になりました。
恐ろしいほど星がまたたき、不安な中歩き続ける自分をどこか励ますような、「がんばれ、もう少しだよ」と言ってくれているような気がしました。実家の最寄り駅前はまるで20数年間住んでいて見たこともない光景が広がっていました。夜遅くに帰っても何かの明かりがついていたのに、すべて真っ暗になり、お店をやっているような人が外に出ていたりしました。

(いったん切ります)