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piantinaの日記

日本のとある教会で弾いてるオルガニストの毒にも薬にもならない戯言

『沈黙―サイレンス―』を観た。

みなさんこんにちは、Piantinaです。
先日、今週の月曜日についに、「沈黙―サイレンス―」を観に行ってきました。

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一応、写真のタイトルが「教会 長崎」とあったので、使わせていただきました。写真そのものは素材サイトから引っ張ってきたものです。

 

『沈黙』と聞いて、文学に詳しい人、もしくはクリスチャンの人だと、「ああ!遠藤周作の!」という反応でしょうが、そうでない人は「えーっと、高校の現代国語でやったっけなぁ…」くらいの反応かもしれません。かくいう私も恥ずかしながら現代国語の教科書にたまたま『沈黙』が掲載されていてその個所を読んだのみです。

 

 

 

高校2年でそろそろ大学受験などを視野に入れ始めないといけない時期でもありましたし、結局その頃は英検を取るのに忙しかったり、ピアノをやっていたりしていましたので、文庫本を一冊買って読んでみる、ということができずじまいのまま大人になってしまいました。

 

 

まぁこんなどうしょうもないダメクリスチャンもいます、ってことで。まともに聖書も読まないですし、礼拝はここ数年はなんとか全出席、オルガンも弾いています。だけども神学やら礼拝学やらの知識などを深めることなく「なんとな~~く、ゆる~~く」教会生活を送っているだけの私です。

 


で、「ダメクリスチャン」な私(これでも教会に通って10年超えてるんですけどね、お恥ずかしい)が改めて遠藤周作さんの代表作であり、今回アカデミー賞受賞歴もあるマーティン・スコセッシ監督がメガホンを取った「沈黙―サイレンス―」を観て感じた事をお話しできたらと思っています。

 

 

 

人間は、みんな弱い。

まず、この映画を見て感じた印象はこれでした。
つまり、隠れキリシタンの村人たちはもちろんのこと、ロドリゴの師・フェレイラも、ロドリゴも、キチジローも、「弱い」。
そして「隠れキリシタン」を取り締まる長崎奉行所の井上も、役人たちも「弱い」。

 

 

なぜなら、彼らも「幕府、将軍」に対して思い切ったことができないし、命令に従っているだけ。そしてその当時の幕府将軍の徳川も日本人がキリスト教徒になって、キリスト教人口が増えてしまったら自分らの統治が効かなくなることを恐れていたことでしょう。

 

 

なぜなら、キリスト教というのはその時代の統治者よりも「神(父である全能の神様、そのひとり子であるイエス・キリスト聖霊である神の三位一体の神)」を信じるわけですから。昔々にさかのぼれば古代ローマの統治者もキリスト教が広まるのを恐れました。つまり「いかなる政府、政治権力に対してアンチ」なわけです。ぶっちゃけちゃえば。

 

 

でも、思うのです。
「強い人間っているのですか?」と。
人間は人間である以上限界だってありますし、時に応じては何かに「従わなければいけない」時だってありますし、いつもいつも全力で元気いっぱい、一定量の力を出し続けられる存在ではありません。時には病気やけがだってします。ココロを病むことだってあります。おそらく人間が強かったら「神」を必要としなかったのでは?と思います。まぁもちろん個人の思想上「神」という存在を必要としない人たちもたくさんいることは私もよく存じております。

 

 

そして、フェレイラやロドリゴのような聖職者も知っていますし、キチジローなんかは何度も踏み絵を踏んでしまってはロドリゴのところに「懺悔」をしに来ます。案外私とよく似ていてついつい流されてほかの怪しげな思想やらトンデモ科学などに触れちゃったりするんですが、でも「ごめんなさい~!!やっぱり教会に戻ってきたんですぅ~!!明日から悔い改めて生きます!!神様許してください~!!」となっちゃう。

 

 

まぁああいうタイプの人は私のみならずもちろん教会に普通に通っている人にもいます。なかなか教会にコンスタントに来れず、ある日突然「礼拝に来ました~!!」というタイプの人。窪塚洋介さんの演技もすばらしかったのですが、すごく思い入れを入れて観ていました。 

 

 

そして、気づいたこと

そして、気づいたのは、この映画、小説を丹念に、丁寧に表現されていて、ロケ地はもしかしたら長崎ではなく台湾ですとか中国だったりするのかもしれないのですが、時間としても非常に長いです。当初上映時間を見て「途中で絶対トイレに行きたくなるな」と思ったのですが、直前に行ってなんとかギリギリ持ちこたえました(笑)

 

 

で、私が教科書でやった『沈黙』の箇所というのは本当にクライマックス、まさにロドリゴがフェレイラから「棄教か、信仰を貫いて殉教か」という究極の選択を迫られるそのシーンだったというところです(あまりしゃべるとネタバレになりそうです)。

 

また、これは映画の感想をtwitterで分かち合った方から聞いた話なのですが、最後の方は遠藤周作自身が描けなく、お弟子さんが書いたけれどもうまく表現できなかったというところを、スコセッシ監督がうまく補完させたということでした。ロドリゴ自身は表面上、表に現れて神や聖書、祈りといった「キリスト教的」な色は一切出さない、そして名前も日本語の名前が与えられます。完全に日本人に同化して暮らすわけです。

 

 

 

現代のクリスチャンも「隠れキリシタン

私自身は今はただの専業主婦で、さらに子どもがいないので社会との接点が非常に少ないのですが、働いていた時代や「教会外の」人たちと接するときというのは極力自分から「キリスト教色」を抜いて接しています。それでも、クリスマスが平日にあたって、仕事を休まないと教会に行けないような時もありましたから、結構ギリギリのところでやっていたところもありますが、そうでないときは人から聞かれない限り「自分はクリスチャンだ」とは言いません。労働基準法上は「宗教、信教を理由にした解雇」は禁止になっています。そうですよね、大本の現行憲法すら「思想、信条、精神の自由」を謳っているわけですから。

 

 

おそらく、オウム真理教の事件以来、「ひとつの宗教に所属していること=マインドコントロールされて騙されちゃったかわいそうで弱い人で自分のお仲間を増やしたいからと猛烈に勧誘してくるのでは」という印象を与えてしまっているのですね。それ以上に「クリスマスをお祝いして、除夜の鐘をついて、初もうでに神社に行く、お宮参りや七五三やって結婚式はキリスト教式、葬式は仏式の自分たち日本人は宗教に寛容なの!」という考えをしている人の方が「なんだかなぁ」と思うのです。

 

 

一貫性がないことを問題だ、というわけではありません。
むしろ、そういう「自分たちって寛容でいい人たちなんですよ」と表だって主張することに「ある種の傲慢さ」が出ているのです。わかりやすく言えば「いい人アピール」ってやつです。「いい人」がしたかったらそういう余計なことを言っていないで、黙ってそれぞれの宗教を理解し、リスペクトしているほうがよっぽど素晴らしいと思うのです。

 

 

そんなわけでダメダメな向上心のかけらもないクリスチャンの私があの遠藤周作さんの代表作『沈黙』を巨匠マーティン・スコセッシ監督の「沈黙―サイレンス―」を見てきて思ったことを書いてみました。映画として見ても素晴らしい作品だと思います。それにちょうど昨日、大阪でユスト高山右近列福され、カトリック教会での「福者」となりました。安土桃山~江戸時代初頭の日本とキリスト教に注目が集まっているようです。