piantinaの日記

日本のとある教会で弾いてるオルガニストの毒にも薬にもならない戯言

表現する自由が奪われるのもイヤ、でも不愉快な気分になるものを見たくない…一体どっち?

新年早々、こんな記事に目を引かれました。
ああ、たしかにネット上に何かを投稿するのにどうして「人の目」だとかそういうものを気にしながらしなきゃいけないんだろう、そういえば私が一時期Facebookのアカウントから全情報を消去して、Nisshiというミニブログサービスしかやらない、となったのもちょうど去年のこの頃からだった。私は「誰の目も気にしないで自由に思ったことを投稿したい」という思いがいっぱいだったのだ。


最近、ブログが不自由になってきたと思いませんか? - orangestarの雑記

このブログでは、「2005年を境にブログが不自由になってきた。その元凶はtwitterFacebookだ」というもの。確かに、orangestarさんの意見には納得できますし、説得力のあるいい記事だと思います。たしかにもっと「好き勝手」書けたのに、いつからか「好き勝手」書いたことが批判の的になる…私もFBで何の考え無しに書いたことをコメント欄で「それはやめなよ」的なことを言われたことがありました。

ネットは“コミケ”から"“テレビ”になった。 - シロクマの屑籠

上の記事をさらにわかりやすく「コミケ」から「テレビ」へ変わったとおっしゃっています。自己表現の場だったのに、いつからか「不特定多数のオーディエンス」を意識しなければならなくなってしまった、と。コミケとテレビ、うまいたとえだなぁと思います。


ネットを窮屈にする側の論理 - あままこのブログ

上二つの記事に対して、「むしろどんどん自由になってきている、批判や炎上を怖がるようになってきたのか?ネットの黎明期からやっている人の”昔はよかった”というものには同意できない」とおっしゃっています。

 

で、私が今回お話したいことは…。
twitterFacebookのいわゆる「功罪」の「功」の部分というのはインターネットを介して「テレビの向こう側だった有名人とつながれる」ということです。ファンにとっては直接のコミュニケーションが取れる場にもなりますし、逆に「アンチ」というか彼女を嫌っている人、憎んでいる人にとっても「書き込みひとつで精神的ダメージを与えられる」場になってしまいました。

 

私はtwitter上で以前から応援していた安藤美姫さんの誕生ツィートをしたら、彼女が私のツィートをリツィートしてくださったのがとてもうれしかったし、「ああファンを大切にする人なんだな」という印象を持ちました。
競技時代の彼女は自分よりも順位が上になった選手は必ずたたえますし、負けたからといってテレビのインタビューなどでブスっとした態度を出すような人ではありません。リンクに上がるときは必ず一礼してから入り、演技を終えてリンクを去るときはまた一礼して帰ります。負けて(というかいい順位でなくて)「言い訳している」と言われていますが、単に「うまくいかなかった理由」を彼女は淡々としゃべっているだけです。フィギュアスケートという競技の性質からいって明らかな「勝った」「負けた」というのはつきづらいものだなと思います。特にシングルの場合は「このワザを確実に決められたか決められなかったか」というところはどちらかというと楽器演奏の世界にもなんとなく近いような気がします。だから言い訳というのはもっと違うものだと思いました。印象的なのはトリノ五輪荒川静香さんが金メダルに決まった瞬間、ロッカーから出てきて彼女を祝福していた様子がテレビに撮られていました。

 

何かと発言や行動が騒動になってしまう彼女ですが、twitterなどを読んでいると「誰かを陥れよう」とかそういった悪意がなく、Instagram上に上げた写真なども「素直な気持ちから(悪意が無い)」ものだと私は思っています。問題になったのは大晦日、新年早々のこの件でしょう。

 安藤さん(もう現役引退をされているので「さん」付けさせていただいています)は、現在熱愛中のスペインのフィギュアスケート選手のハビエル・フェルナンデス選手と安藤さん、そして安藤さんの愛娘のひまわりちゃんの3人で写った写真をInstagram上に公開しました。彼女にとっては、フェルナンデス選手とは真剣にお付き合いをされていて、もしかしたら近いうちに彼が安藤さんの夫となり、ひまわりちゃんの「お父さん」になるかもしれない(あくまで仮の話です。本当にそうなるならそれはそれでとてもおめでたいことだと思いますが)ということでとても「順調な」様子をアップしたのでしょう。

だけどもこれが大騒動となり、彼女のコメント欄にはファンもいますから好意的なコメントとそれを上回るような中傷のコメント(「ネガティブなコメント」と彼女はおっしゃっています)で埋め尽くされてしまうことになってしまいました…。

 

確かにSNSとかインターネット上の発言、投稿できる場は「不特定多数で誰が見ているか分からない場で好意的に見る人も居れば批判する人もいる」という場に成り代わってしまったのは確かでしょう。それを思った私のtweetを掲載させていただきます。

確かに「何を投稿する、何を発言する」というのは自由に、そしてより簡単にたくさんの人ができるようになりました。スキルを持たなくともアカウントを登録さえしてしまえば簡単に自分の意見や表現したいことができて、「皆が皆発信者」になることができるようになりました。

 

だけど「自由というのには必ず責任があり、制約がある」。これは私が中学時代の恩師から言われた言葉であります。なぜか中学時代というのはそれほど好きな時代ではなかったのですが、なぜかこの言葉は覚えています。自由を手にするということはそのぶんの「責任や制約」を持ち、受け入れなくてはならないということだと。また、これは私の母校になった高校の入学説明会か何かで高校の教頭先生だったかが言った言葉がなぜか印象に残っています。
「わが○○高校はとても自由な校風を持っています。先生も生徒たちの自主性を大事にしています。だけども当校には”自由とわがままを履き違えている”生徒がたくさん見受けられています。最低限のマナーやきまりというものを守って欲しい」という話でした。私はこの「自由とわがままを履き違えている」という言葉が忘れられません。

 

たしかに高校時代は先生から「制服の着方はああだ、こうだ」「髪はああしろこうしろ」とか言われたことがありません。海の近くにあり明るい雰囲気の中、良くも悪くも生徒の自主性というのを重んじていたいい高校だと思っています。

 

結局、「自由が奪われるのも嫌だ、でも、不愉快なものは見たくない」という都合のいい言い訳めいたものがが浮かび上がってきました。
不愉快な気分になるのなら見なきゃいい。そう「嫌なら見るな」という話です。だけども目に入ってくる。友達つながりだったりフォロワーつながりだったりで「イヤ」でも無視できない。だけども安藤美姫さんの件はある意味「タチの悪いストーカー」達が大騒ぎしているだけなのではないかな、と思います。本当は嫌い、憎い、ヘイトな気持ちを持っているのに、見てしまう。

 

マザーテレサ「愛の反対は憎しみではなく、無関心」とおっしゃっていたように、「嫌い、憎い」という気持ちは実は彼女が羨ましいとか嫉妬の気持ちもあるんじゃないかと思います。スポーツ選手としての輝かしい経歴や才能、華やかなルックス、仲間たちにも恵まれて、かわいらしいお嬢さんもいる。実家のカフェレストランもテレビで拝見しましたが繁盛している様子ですし、場所も名古屋のオフィス街にあるそうです。それで「うわぁ、いいなぁ、素敵」と思う人も居れば「何コイツ~!(ハンカチカミカミしながら)」と思う人も居るのです。

 

だからこそ、ネット上でも安藤さんのようにある意味で「私はヘイトなこと言われても平気」という強さがないとやっていけないのではないでしょうか?書きたいこと、言いたいこと、投稿したいことはどんどん何があろうと書き続ければいい、それはイケダハヤトさんも本でおっしゃっていたように思います。

 

だってリアルの世界で自分のブログ知っている人、どれだけいますか?たぶん私は館山の道端であう人に私の顔を見るなり「私アンタのブログ、ナントカ嫁だとかいうヤツよぅ、見てんけどよぅ、文章多くてよくわからんっぺよ!」と説教を垂れられたことはありません。逆にそんな人が居たらビックリです。そんなに有名なブログになってしまったかと(笑)