piantinaの日記

日本のとある教会で弾いてるオルガニストの毒にも薬にもならない戯言

3.11―あの日からもう4年、まだ4年―【続きです】

みなさんこんにちはasterixxxです。
先ほどの記事の続きです。

 

震災で電車は全てストップ、歩いて家まで帰った

実家はマンションでしたので、エレベーターに乗れるわけでもないので階段を上って帰りました。帰ると母がいて、家の中は真っ暗でした。そして「すんごい久しぶりに出したのよ~」と言って燭台を出して蝋燭に火をともしていました。

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実際はこんな立派なものではないのですが、イメージです。

その中で私は、「サッポロ一番塩ラーメン」のカップラーメンを食べました。母は日が暮れないうちに必要そうな水を下からくんで、お湯はわかしていたようです。キャンドルの中で食べたサッポロ一番塩ラーメンの味は普段とは違う味がしました。今でもどうやって表現していいのかわからないような味でした。「ああやっと食べ物にありつけた」というのもありましたが、とにかく情報がシャットアウトされて「わけのわからないまま」の不安の中食べていました。

 

 

それから2時間くらいして父が帰ってきました。やはり私と同じように歩いて帰ってきたようです。そこで停電が解除されて電気がつき、蛇口から水が出るようになりました。当時の私の実家は貯水タンクから水を電力で押し上げる方法でしたので、上階の住人は停電になると水すら使えない状態だったのです。

 

 電気がついて

電気がついてまずテレビをつけました。
すると、ありえない光景がテレビに映っていました。
まるで洪水のような大津波が街を襲っているのです。木造の家はめちゃめちゃになり、樹木や電柱もなぎ倒され、ものすごい速さの水がどんどん街を飲み込む。ビルや高台に逃げている人はいるものの、ビルの屋上から助けを求める人たちがいました。

ただただ、この光景を見て言葉が出ませんでした。

 

被災をしていても、直接していなくても4年前の3.11を境に状況が変わってしまった人は大勢いますし、今もなおふるさとに戻ることができずに避難生活をしている人もいますし、心に大きなダメージを負ってしまい、それが時間がたった今現れている人もいます。同じ空の下、この震災で亡くなった人、行方不明の人ももちろんそうなのですが、人生を大きく変えられてしまった人、今もなお苦しい思いをしている人たちがいるということを心に留めておかなくてはなりません。東日本大震災と3.11直後の混乱状態は決して忘れてはならないこととして語っていかなくてはならないことだと思います。