piantinaの日記

日本のとある教会で弾いてるオルガニストの毒にも薬にもならない戯言

遅くなりましたが、長谷川豊さんの発言についてあれこれ考えたまとめ。

みなさんこんにちは、Piantinaです。
少し前にこんなことが話題になっていました。

 

そう、件の長谷川豊氏です。
まぁ私は以前にこの人の「子どもを作らない日本人は子ども嫌いなのだ、そしてそういう人は自分大好きのわがままな奴らなのだ」的なブログに激怒した過去がありました。 

mayflower81.hatenablog.com

この時にも記事を読んで思ったのが、「木を見て森を見」たかのように少ない、浅い取材でワーワー書いているという印象がありました。 もちろん自分大好きだから子どもが欲しくないという意見の人だっていないわけではありません。が、世の中には「欲しくても授かれない」人たちだっている、という視点に欠けていること。それは肉体的な事情もしかりですし、経済的なこと、環境的なこともあります。もちろん「子どもを産み育てること」の尊さ、次世代に「こうしたほうがいいよ、ああしたほうがいいよ、こうしてはいけないよ」と伝えたいものがないわけではありません。

 

 

子どもを持ってしまったら一気に貧困層に転落する微妙なラインの人たちだっているわけです。もしくはもう不妊治療すら受ける経済的時間的余裕がない、という人たちだっています。それに不妊治療をしたからと言って必ずしもわが子を腕に抱けるかというと、そうでもありません。年齢的、経済的限界がきて「離脱」していく人たちだっているのです。そしてそういった貧困の人たちをこの手の主張を持っている人(つまり”弱者は死ねばいい”的な)からしたら「貧困層になるくらいなら産むな!」ということになるんでしょうから。もういちいち相手にするほうが疲れてきます。

 

 

だけども今回のような「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」というのは先に相模原で起きた「やまゆり園」の事件の犯人の主張にそっくりです。そういった「弱者は死ねばいい」的な発想が出てくるところに戦慄を覚えるのです。

 

 

かつて第二次大戦中に日本と同盟していたナチス・ドイツでは、最初にガス室に送られていったのは障がい者でした。健康を害して働けない人、先天的な障害を持つ人は秘密裏にガス室に送られ、殺されていったのです。それも家族もよくわからないままあるとき「誰々さんは亡くなりました」と通知が来るだけ。それが後々には矛先が「ユダヤ人」へ向かっていきました。その後は歴史を勉強したことのある人ならもちろんわかっていますが、アウシュビッツでの大量虐殺です。

 

 

 

なによりも私が残念に思ったのは長谷川豊さんという人はフリーアナウンサーではありますがまがりなりにも「報道」にかかわる人です。そういう人がアチコチちょっと取材をしただけで、しかも感情的に浅い思考でああいう文章を書かれるというのは「ああ、マスコミにかかわる人でもこんなレベルなのか」と落胆してしまったのです。なんか、「軽い」のです。まぁ私の言うことではないかもしれませんが。

 

 

 

もっと取材を深めて、さらに広いところから話を聞いてそれをまとめるのが報道なのではないでしょうか。私は朝に国際ニュースを見ていますが、もうBBCなんてNHKやほかの日本の放送局なんかと段違いの質の報道をしているのです。平気で政府批判もしますし、偏った視点に立った内容ではないですし、なにより映像のつくりも素晴らしい。

 

 

日本の放送局なんかはもうみんな政権批判なんてできない状態ですし、かといって批判すれば「サヨク!」「反日!」「売国奴!」みたいに言ってくるのですから。政権よりでもないかといって「サヨク」でもない報道って結局日本にはないんだろうな、と思います。

 

 

もちろん、日本の福祉や介護にかかわる予算というのはどんどん膨れ上がっていますから、それを問題視するのもわからなくはありません。それに「どこまで延命治療をするのか」のラインをハッキリさせなければ介護で家族が疲弊することもある、という現実もあります。機械で「生かされている」状態をいったいどこまで続けるのか、というのはありましょう。

 

 

それに人工透析になる人というのははっきり言って全員が全員「不摂生の結果」ではありません。そこの視点も欠けているところが「あ~あ」という感じです。確かに不摂生で病気になるというのはありましょう。だけども、健康に気を使っていても病気や死はやってくるものなのです。

 

 

だけども、あまりにも乱暴な書き方ですし、またしてもこの人工透析のことを書いたブログは炎上。特段「罪のない障がい者を元施設の職員が次々と殺していった」という恐ろしい事件の後だからこそ、そして高齢者、障碍者LGBTの人、貧困の人といった「弱者」に「生きる権利を与える」ようになっているのが今の日本の仕組みでもありますし、もっともっとそれらの人が生きやすくする社会が求められているわけです。障害を持つ人を「感動の道具」にするでもなく、「あなたも生きていていいんですよ」と言えるようにしなくてはならないと思うのです。

 

 

そして、そういう福祉の思想の原点になるのが今の日本人が忌避している「宗教」なのではないでしょうか。神道は勉強不足でいまひとつわかりませんが、仏教や日本にわずかながらにいるキリスト教、もっともっと少ないイスラム教も「弱者を助ける」という視点があるかと思います。まぁこんなことを言うと「宗教の回し者がきれいごとを言って!」となるかもしれませんが、やはり日本が近代化していく中で様々な福祉施設を設立していったり病院の建設をして行ったのはキリスト教の団体でもありますし、それらが少しずつ日本の福祉に影響を及ぼしていったのではないかと私は考えます。

 

 

 

「困ったときはお互いさま」と昔の人は言いました。今健康でお金があって地位もあるような人だっていつ何時それがなくなるかわからないのです。みんながみんな迷惑をかけあっていますし、みんながみんな助け合って生きていかなければならないと思っています。